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相模原事件裁判の被告人質問で植松聖被告が語った証言の気になる点

篠田博之月刊『創』編集長
相模原事件裁判で横浜地裁前に集結したテレビ中継車(筆者撮影)

 2020年1月24日、横浜地裁で行われている相模原障害者殺傷事件の公判で、ひとつの山場とされる被告人質問が始まった。初公判で2000人近い傍聴希望者が訪れた後、一時は減っていたのだが、再び大勢の傍聴希望者が列を作った。

 植松被告本人が初めて公的な場で事件について語るというニュースバリューもあって、テレビ各局の中継車が裁判所前にズラリと並んだのも印象的だった。恐らく昼のニュースで現場から伝えるためなのだろう。

「新日本秩序」に沿って細かい質疑 

  さて、公判は午前10時半から始まり、何度かの休憩をはさんで午後4時頃まで行われた。異例だったのは、弁護人が植松被告の体調を気遣って、何度も「大丈夫ですか?」と声をかけ、昼の休憩も早めにとることになったり、午後も休憩を増やし、さらには最後にあと1時間くらいと言っていたのを、突然、終わりにしてしまったことだ。弁護人が要求したらしい。

 植松被告は緊張していたし、暖房のきいた法廷で(私もセーターを脱いでワイシャツになったほど)黒いスーツを着ていたので、汗をかいたりしていたのだろう。傍聴席からは背中しか見えないが、弁護人からは体調が悪いように見えたのかもしれない。

 

 植松被告が語った内容は、これまで彼が発言してきたのと基本的に同じだ。特にその法廷では、植松被告が自分の考えをノートにまとめた「新日本秩序」に沿って説明が行われたため、その第1章の安楽死だけでなく、第2章の大麻、さらには軍隊や環境問題にまで話が及び、全体としてひどく散漫な印象を受けた。「新日本秩序」は前回の記事でも紹介したが、2017年春に弁護人にノートが手渡されたらしいが、私のもとには8月に送られてきた。その冒頭の7項目を掲げておこう。本人自筆のものである。

植松被告のノート「新日本秩序」に書かれた7項目(筆者撮影)
植松被告のノート「新日本秩序」に書かれた7項目(筆者撮影)

 さて、その1日がかりの審理内容を細かく報告する余裕はないので、ここで気のついた箇所を紹介しておこう。メモをもとにしたものなので細かい表現は違いもあるかもしれないが、概ねあっていると思う。

冒頭で弁護人の主張に被告が反対するという異例の展開

 マスコミが大きく報道したように、まず冒頭で植松被告が「心神喪失による無罪主張」という弁護団の方針を否定した。1月14日に接見した時に、彼は弁護団の主張に強く反発して弁護団解任まで口にしていたのだが、裁判員裁判で公判前整理手続きが2年以上も続いてきたものを今からひっくり返すのは無理だからと説明した。そして、それよりも弁護団と交渉して、自分はその主張に反対だと表明する機会を被告人質問で設けてもらうことを勧めておいたのだが、たぶん弁護団と協議して合意成立に至ったのだろう。ちなみに植松被告とその話をした接見内容については下記で報告した。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20200114-00158929/

翌朝小指は噛みちぎったー相模原事件・植松聖被告が面会室で語った驚くべき話

 その間、1月22日に接見したTBSが、植松被告が「弁護人解任」を口にしていることをそのまま報道してしまったのでヒヤッとしたが、たぶん私以上に弁護団が「おいおい」と思ったに違いない。私がヒヤッとしたというのは、被告との協議がなされる前にマスコミに報道されることに弁護団が反発して、植松被告に、マスコミ取材に応じないよう求める恐れが高いからだ。実際、この間、弁護団は被告にそう要請しているらしい。この3年間、実は裁判所も含めた三者協議で植松被告の接見禁止が話し合われたこともある。なかなか微妙な問題なのだ。

 植松被告には14日の接見で、初公判での彼の自傷行為の意図が全く社会に伝わっていないので、誰にどういう謝罪をするのかもう一度考えてほしいとも言っておいたのだが、24日の公判ではその謝罪はなされなかった。

 植松被告は、これまでは遺族や被害者家族にのみ謝罪していたのだが、殺傷した障害者への謝罪は表明していなかった。しかし、謝罪の対象としてその人たちも含めると14日の接見の時に言っていたので、そこは大事なところできちんと言わないといけないとアドバイスした。今後その謝罪が法廷でなされるのかどうか。ここは植松被告自身、事件の正当性主張に関わる重要な部分なので、恐らく思い悩んでいるのだろうと思う。

 24日の公判では、事件を起こしたことは間違っていないと今でも思っていることを強調していた。彼は、本来提唱している安楽死でなく(この安楽死の規定も本来は本人の合意に基づくものだから理解が違うのだが)、強制的な殺傷となったことを「本意ではなかった」とは言ってきた。ただそれを一歩進めて、明確な言葉で殺傷した当事者に謝罪するかどうかは、植松被告にとっても、恐らく思案のしどころだろう。

公判冒頭の弁護人とのやりとり

 さて公判の冒頭のやりとりを紹介しよう。マスコミ報道では省略したのだが、私が驚いたのは、弁護人がこんな質問から始めたことだった。

弁(弁護人) お尋ねします。ここはどこですか?

被(被告人) 裁判所です。

弁 何の裁判ですか?

 ここから話を始めるということは、弁護団があくまでも被告が大麻精神病にかかっており、事件当時も心神喪失にあったという主張を変えていないという意思の現れだろう。そして続いて弁護人はこう質問した。

弁 この裁判で弁護人がどのような主張をしているか知っていますか?

被 知っています。

弁 それについてあなたの言葉で語っていただけますか?

被 責任能力を争っていると思いますが、自分は責任能力を争うのは間違っていると思います。責任能力がなければ即、死刑にすべきです。自分は責任能力があると考えています。

弁 あなたは正しい考えにもとづいて行動したと言うのですね。

被 はい。

 「責任能力がなければ即、死刑にすべき」というのは、責任能力のない人は、植松被告の言う「心失者」ということなのだろう。公判途中のやりとりで、彼は自分の造語である「心失者」の概念について訊かれ、「心神喪失者を略して心失者と言いました」と答えていた。弁護団の主張する、彼自身が心神喪失だという規定は、自分自身が「心失者」だと宣告されることで、植松被告には受け入れがたいものということだ。

 もちろん被告自身も、死刑判決を避けるためにそれが主張されていることは理解しており、当初は弁護団の主張に反対しないとも言っていたのだが、初公判での弁護側の主張で明確に自分が「大麻精神病で心神喪失」と規定されたのを知って、受け入れられないと考えたらしい。

植松被告は、やまゆり園で何を見たのか

  この後、弁護人は被告から渡された「新日本秩序」の内容について細かく質問していく。話は大麻や難民問題、軍隊、環境問題、さらには植松被告の恋愛学にまで及んだ。被告は「恋愛は大切なのに学校できちんと教わっていない」と言った後、「浮気されても束縛はいけません、浮気された側にも問題があったかもしれませんし…」などと持論を展開。事件と関係ない質疑に、傍聴していて「おいおい」と思った。

 弁護人としては、その日はとにかく、被告の主張をそのまま法廷で話してもらおうという方針だったのだろう。植松被告の話は、個々のやりとりは整合性がとれていても全体を考えると疑問が湧いてくるというものだが、弁護人としては被告に細かい説明までさせて、最終的に細かい矛盾を考えるとやはり責任能力に問題ありという結論に導く方針なのだろう。

植松被告がノートに書いた「新日本秩序」(筆者撮影)
植松被告がノートに書いた「新日本秩序」(筆者撮影)

 とにかく弁護人と被告とが最後までかみ合わず、立証趣旨がわかりにくい被告人質問だったが、幾つか気になった点もある。

 ひとつは、植松被告が津久井やまゆり園で具体的にどういう状況を見て、どんなふうに感じて、「重度障害者は生きている意味がない」という考えに至ってしまったのかということだ。

 24日の質疑では、こんなやりとりがあった。

弁 やまゆり園で多くの障害者を見て何を感じましたか?

被 こんな世界があるのかと驚きました。

弁 働いていくうちに考え方が変わってきたのですか?

被 (重度障害者は)必要ないと思いました。

弁 安楽死させるべきなのは、障害のある人全てではないのですね。

被 意思疎通がとれない人です。

弁 障害者のご家族と話したことはありますか?

被 あります。

弁 ご家族なりに意思疎通はとれていると言う方もいると思いますが。

被 特に短期入所者の家族は、暗い表情でそそくさと逃げるように帰っていきます。重たい表情で疲れ切っていました。

 植松被告は、自分が起こした事件をやまゆり園の処遇などの問題と結び付けることには反発する。ただ、随所で、自分が支援をしていても感謝の言葉もなく報われなかったとか、家族などが不幸な表情をしているといったことも口にしている。このあたりは大事なポイントで、今後も続く被告人質問でぜひ詳細に取り上げてほしい。

措置入院中に犯行を決意したと改めて表明

 それから24日の審理で気になったのが、2016年2月の措置入院と事件の関係だ。植松被告が、事件決行を具体的に決めたのが措置入院中だったことは、『開けられたパンドラの箱』(創出版刊)に収録した彼自身の手記でも書いている通りだ。ただ24日の証言では、少し異なる文脈でその質問に至ったために、従来の主張とは少し違う説明をしたように思う。こんなやりとりだ。

弁 どうしてあなたがやらなければならないと思ったのですか?

被 自分が気づいたからです。

弁 他の人でなくあなた自身がやらなければと思ったのは?

被 気がついたからです。措置入院中に思いつきました。

 それまでは独断でやろうとは思っていませんでした。

 つまり措置入院の体験がなければ、自分一人ででもやろうという気持ちにはなっていなかったというのだ。措置入院の印象についてはこう答えた。

被 窓も何もない部屋に閉じ込められました。トイレと監視カメラのみで、これはやばいと思いました。

 自分が否定していた精神障害者と同じ状況に置かれたことに反発したというわけだが、それが決行を決意したこととどう関わっているかは大事なポイントだ。

 『開けられたパンドラの箱』で精神科医の斎藤環さんが、措置入院のあり方に大きな疑問を提示しているが、植松被告が、それまで思っていたことを実行に移そうと、措置入院中のどのタイミングで思うようになったのか、何がその要因だったかは、もっと掘り下げられてほしい。

トランプへの共感を法廷で何度も表明

  2016年2月頃に、アメリカ大統領選に立候補していたトランプをテレビで見て共感したという話はこれまでも語っていたが、今回の被告人質問では、それについても詳しく訊かれ、何度もトランプを称賛していたのが印象的だった。

 トランプも差別的排外的なことを口にし、植松被告に言わせると、言いにくいことをはっきりと口にしていった人物だが、彼にとってはその後、そういう人物が大統領になってしまったことがさらにトランプへの共感につながっているようだ。つまり多くの批判を浴びながら最後は理解され賞賛を浴びる存在になるというのを、自身になぞらえているのだと思われる。その日、法廷で植松被告は、自分がやろうとしたことは「革命」だったと語った。

 植松被告が2015年夏頃から、障害者支援の仕事に疑問を感じ、一時は転職も考えたこと、それが約半年で重度障害者を殺傷するという考えにまで行きついてしまったことについては、具体的にどういうプロセスでそうなってしまったのか、詳細に検証する必要があり、それがこの裁判に課せられた大きな課題だ。

 弁護側はその間に、植松被告に大麻精神病が発症したという見方だが、1月20・21日に行われた弁護側の証拠説明、つまり植松被告の周囲の多くが、何カ月かで彼が急変していったことに驚いたという数々の証言も、私は傍聴席で聴いていて、それなりの説得力を感じたものだ。もう2年半も彼と接してきて、いまだに私のそれについての疑問は消えていない。

 この被告人質問の最後の方で、恐らく傍聴人は驚いたと思うが、植松被告はイルミナティカードで日本滅亡の預言を把握し、自分が救世主との啓示も受けたとの主張を行ったのが、その話に突然、「闇金ウシジマくん」の話が飛び出した。植松被告はこのマンガが好きなのだが、その中に彼自身についての啓示があったというのだ。私は以前の接見で同じ話を聞いていたが、初めて聞いた人は、「え、何?」と驚いたに違いない。ちなみに接見で最初に聞いた時は私も「え?」と思い、手紙でも確認したのだが、結局わからなかった。

 イルミナティカードで預言を知って実行に移したという彼の話は、弁護団の主張を裏付ける要因にもなるような気がするのだが、よくわからない。

 『開けられたパンドラの箱』では精神科医の松本俊彦さんが「思想なのか妄想なのか」と問題を立てているが、植松被告の行きついたものが、へイト思想の究極化だったのか、あるいは精神的変調によるものだったのかは、実はなかなか難しい(ただ、そのことと責任能力があっるかどうかは、少し別の問題だが)。

 裁判は被告人質問で折り返し地点に達しつつある。検察側の反対尋問も含めて、被告人質問は4回の公判があてられているが、次回以降、どんなやりとりが行われるのか注目したい。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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